大阪地方裁判所 昭和55年(ワ)5546号 判決 1984年8月20日
原告
中川順也
右法定代理人親権者父
中川進
同母
中川昌子
右訴訟代理人
林義久
被告
池田聰明
右訴訟代理人
林田崇
小林淑人
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実《省略》
理由
一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。
二同3の事実中、昌子が昭和五二年一月七日より被告の診察を受けていたこと、原告の出産予定日が同年八月一〇日であつたこと、同年七月二九日に昌子が被告の診察を受けたこと、被告が昌子に入院を指示し、同女が同日午後再度被告方に来院し、被告の診察を受け入院したこと、被告が吸引分娩によつて原告を出産させたことは当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、原告は同年八月一日に大阪市立住吉市民病院に転医し、同病院をいつたん退院した後に、大阪市立桃山病院、大阪市立大学付属病院で治療を受けたこと、原告は頭蓋内出血により孔脳症を起し、その結果、神経系統、精神に障害を生じ、五才になつても、頭部が変形し、左目は寄り目で容貌の面からも異様であり、興奮すると口からよだれを垂らし、左手は麻痺して物を持つことができず、一人で立つことはできても左足が跛で足を引きずるようにして歩行しているし、知能の発育も遅れ、言葉も数語程度しか話すことができない等左半身不随の後遺症を残し、病状は回復不可能であること等の事実を認めることができ右認定を左右するに足りる証拠はない。
三原告は、右二記載の結果につき、被告に対し、主位的に請求原因2記載の診療契約の債務不履行責任を、予備的に不法行為責任を主張ずるので、請求原因2記載の診療契約の当事者並びにその成立が認められるか否かの判断はしばらくおき、まず、右債務不履行責任及び不法行為責任の各主観的要件たる被告の帰責事由及び過失の存否について判断する。
(一) 原告は、第一に、被告が吸引分娩の適応がなかつたにもかかわらず、あつたと誤認して吸引分娩を決定し、さらに吸引分娩施術の諸条件を精査しなかつた過失がある旨主張するので、この点について判断する。
<証拠>に前記争いのない事実を総合すれば、昌子は、昭和五二年一月七日に被告方病院に無月経と悪心を訴えて診断を受けに来たこと、その際、被告は昌子が妊娠三ケ月の初期であり、出産予定日は同年八月一〇日であると診断したこと(この点当事者間に争いがない)、その後、昌子は定期的に診察を受けるために、被告方に通つたこと、同年七月一五日の診察の際、尿たん白がプラスマイナスと出て、下肢の浮腫があり、軽度の妊娠中毒症の症状を呈していたこと、しかし、同年七月二五日には右症状は消失しており、その他に特に異常はなく、妊娠経過は順調であつたこと、同年七月二九日午前一〇時頃、昌子はしるしがあつたといつて来院したこと、被告が診察すると、昌子の膣から水様性のものが出て来ており、内診指を使つて被告が膣内を開いて膣鏡を入れて検査すると、子宮口から水様性のものが出ていることが判つたこと、昌子は、そのときはまだ陣痛が始まつていなかつたので、被告は、卵膜が破れて羊水が出て来た前期破水であると判断したこと、さらに、被告が診察すると子宮口が1.5横指程開口しており、児頭が骨盤入口部に入つていたので、同人は出産の徴候であると判断し、昌子に対して入院する様に指示したこと、昌子は同日昼頃陣痛を感じたこと、同日一三時五〇分頃昌子は歩いて被告方へ行き入院したこと、入院の際、被告が昌子を診察すると、外子宮口が三横指開大しており、児頭が骨盤入口部に入つており、陣痛発作は不規則で約一分間の弱い陣痛であつたが、胎児心音は正常であつたこと、同日一四時三五分頃、陣痛の時間、強さや胎児の心音をモニターする分娩監視装置を設置したこと、同日一五時に、被告は、昌子に、子宮口を軟化させて分娩を容易にするプロスタルモンE2という内服薬を服用させたこと、胎児の心拍数は、同日の一五時直前、一五時五分頃、一五時一〇分頃、一五時一五分頃、一五時三〇分頃、一五時五〇分頃に異常に乱れ徐脈状態となり、児心音も不規則であつたこと、他方、昌子の陣痛発作も不規則で、かつ微弱であつたので、一五時一五分頃、被告は昌子に対し、酸素を一分間に三リットル吸入させ、さらに、子宮口を軟化させ子宮口が開いて児頭が下がり分娩が早く進むように、指で子宮の入口を開く鈍性頸管拡張術を行つたこと、同日一六時二〇分に昌子の子宮口が全開大したこと、この時被告は、第一に、胎児の心拍が乱れ徐脈が認められたので、切迫仮死や分娩遅延による胎児への悪影響が予想されること、第二に、破水後既に六時間余り経過し、前期破水により児頭を保護すべき羊水がなくなつているために、児頭が直接に子宮口を開口しており、児頭の圧迫による切迫仮死のおそれがあること、第三に、分娩遅延により臍帯の圧迫、臍帯の捻転、巻絡による血液の循環障害のための無酸素症状のおそれがあること等を考慮し、吸引分娩を行うことを決定し、同日一六時二〇分に吸引器をセットしたこと、被告は、昌子に「赤ちゃんが挾い所に入つてしんどいので、出るのを手伝つて上げます」と説明し、会陰切開をしたこと、その際、原告の児頭が昌子の骨盤より大きいという児頭骨盤不均衡(CPD)という状態はなかつたこと、産道には、腫瘍、静脈瘤等の成熟児通過に著しく障害となるものは認められなかつたこと、児頭は、鉗子適位以下の骨盤内に進入固定していたこと、胎児は反屈位ではなく、回施に異常はなかつたこと、膨大な産瘤や強度の骨重積はなかつたこと、同年七月二九日は昌子の満産期であつた等の事実が認められ<る。>
ところで、<証拠>によれば、専門家の間において、吸引分娩は、分娩に際し、母児の生命に危険が切迫し、急速遂娩を要する場合に行われる分娩手術の一方であるが、その適応としては、胎児側の要因は、切迫仮死その他の異常であり、母体側の要因は、陣痛微弱、分娩遷延、妊娠中毒症、前・早期破水等であることがあげられていること(右適応については当事者間に争いがない)、そして、その吸引分娩の条件(要約)としては、(イ)児頭骨盤不均衡(CPD)がないこと、また、あつたとしてもごく軽度であること、(ロ)子宮口は全開大(約一〇センチ開大)またはそれに近いこと、(ハ)産道に成熟児通過に著しい障害が認められないこと、(ニ)反屈位でないこと、(ホ)膨大な産瘤や強度の骨重積のないこと、(ヘ)破水していること、を具備していることを要するものといわれているところ、前認定の事実によれば、被告のなした吸引分娩施術は、昌子についても、胎児についても適応があり、その施術に際し、被告自ら吸引分娩の条件の具備を精査した上で吸引分娩を決定しており、その措置は適切で何ら過失はなかつたものと認めるのが相当である。
(二) 原告は第二に、被告が吸引分娩を施行した際、吸引カップの装着の仕方がカップの陰圧の上げ方に過失があつた旨主張するので、この点について判断する。
<証拠>を総合すれば、原告の出産については、児頭の第一回施、第二回施には何ら問題はなく、被告が吸引をかけたのは第三回施の初期であつたこと、本件の吸引の際使用された吸引カップは、シリコンゴムでできたソフトバキュームカップであつたこと、被告は、児頭の第二回施が終了した際、子宮口が全開しており膣に吸引カップを挿入できる余裕があることを確認して、児頭の後頭部に吸引カップを装着、固定し、さらに吸引カップが胎児の頭部前後の泉門や胎児の顔面にかかつていないか、あるいは母体の膣壁、子宮口、軟産道をはさんでいないかを確認したこと、そして、陰圧を上げる吸引器のポンプのスイッチを入れ、一五秒から三〇秒位の時間で自動的に陰圧が五〇〇ミリバール位まで上がり、吸引のセットが完了したこと、被告は、昌子の陣痛の発作を待ち、次の陣痛の開始と同時に吸引し、第三回施の児頭の横軸回施を促進し、児頭が出た時に吸引カップをはずしたこと、吸引カップを装着してから吸引が完了して吸引カップを胎児からはずすまでかかつた時間は約一時間であつたこと、右時間は、陰圧を自動的に上げる吸引器を使用した場合、特別に短時間であるとは言えず、本件の吸引器具の性能からみて、被告が急激に陰圧を上昇させたとは言えないこと、原告が母体より完全に出た際、児頭、躯幹、手足等に何ら産瘤、奇形、損傷はなく、生まれてすぐに大きな声で泣いたこと等の事実が認められ<る。>
以上によれば、本件の吸引分娩施術の際、吸引カップ装着の位置についても、吸引カップの陰圧の上げ方についても、何ら問題はなく、被告に過失はなかつたものと認めるのが相当である。
(三) 原告は第三に、吸引分娩後、被告は原告に対する特別な配慮に基づいた看護を怠つた過失がある旨主張するので、この点につき判断する。
<証拠>を総合すれば、原告は昭和五二年七月二九日一六時一〇分に出生したこと、その時原告の体重は二九一〇グラムであつたこと、アプガースコアは一〇点で、心拍数、呼吸、反射、皮膚の色、啼鳴は正常であつたこと、翌三〇日に原告は尿を三回、便を一回排出したこと、その日は原告は黄だんも嘔吐もなく、白湯を二〇ccと希釈したミルクを二〇cc飲む等、原告は正常な状態であり、その日の昼頃に血尿が出た事実はなかつたこと、被告は三〇日の夜は病院を不在にしているが、その間助産婦が二四時間不眠で原告らの様子を看視していたこと、ところが翌三一日の一二時一〇分頃、助産婦より、原告の顔面がそう白で呼吸不整である旨の報告があり、被告が診察すると原告の顔面がそう白であり、両手を固く握つて呼吸が荒く、伸吟があつたこと、被告は原告に酸素吸入を約三分間行つたところ、ほぼ正常の状態に戻つたこと、そこで被告は原告を保育器に収容したこと、同日一二時五四分頃、被告が原告を診察したところ、呼吸、心臓の音、脈拍数等は正常で、特別な意識障害や反射の異常等はみられなかつたが、チアノーゼが少しあつたこと、そこで、被告が原告の胃の内容物を吸引すると出血しており、新生児メレナ及び脳内出血の疑いがあつたこと、被告は昼頃、大学の先輩である大阪市立住吉市民病院の小児科専門医の中村医師に電話で原告の症状や被告の判断を伝えて助言を求めたところ、中村医師も被告と同意見で、止血剤であるビタミンK2を投与して一応経過を看た方がよい旨指示したこと、そこで被告は止血剤であるビタミンK2を一〇ミリグラム原告に投与し、その上で原告に口からミルク等一切のものを与えないよう指示したこと、同日一七時二〇分頃、原告に軽度の下肢痙攣及びチアノーゼがみられたこと、一七時四五分頃に被告は保育器内で原告に酸素を吸入し、さらに一八時五二分にビタミンK2を投与し、一九時一五分に抗生剤であるラリキシンドライシップを投与したこと、一九時二〇分から二三時一一分までの間に九回にわたつて原告の四肢に痙攣がみられたこと、二三時三〇分に再び原告の胃内を吸引すると出血があつたこと、二三時三二分に、原告に筋肉の痙攣を抑える鎮痙剤であるフェノバールエリキシンを一cc投与したこと、同日夕方頃、被告は原告の経過を中村医師に電話で報告すると共に、翌朝原告の状態が悪ければ原告を大阪市立住吉市民病院の中村医師の許に送りたいということで、同人に了解を求めたところ、当時、堺市には小児科専門の救急病院はなく、又他に、被告方で行われた原告に対する救急処置以上の事ができる病院は近所になかつたこと、昭和五二年八月一日〇時三分から五時五六分までの間に原告に一八回にわたつて痙攣がみられたこと、同日八時に被告は原告にラリキシンを投与したこと、同日八時過ぎに原告は大阪市立住吉市民病院に転医されたこと等の事実が認められ<る。>
以上の事実によれば、原告出生後の被告方病院の原告の看護体制は一応整つており、原告の異常発見後の応急処置や、専門医師への連絡、あるいは専門病院への原告の転送も適切であり、被告には何ら過失がなかつたものと認めるのが相当である。
なお<証拠>によれば、原告を診察した大阪市立住吉市民病院の原医師が、昭和五二年八月一日、原告法定代理人中川進に、原告の病状の原因につき「産後何かに問題があつたと思う」と話したことが認められるが、同医師が何をもつて問題としたのかは右記載から推論するのは困難であるし、証人中村日吉の証言に照らして、右事実から原告主張の被告の過失を推認することは、到底できない。
(四) 以上検討してきたように、本件の吸引分娩については、その手段の決定、実施、あるいは事後の監護について、被告には何ら責に帰すべき事由あるいは過失はなかつたものと認められる。
四従つて、仮に原告主張の診療契約が成立していたとしても、主位的請求について、原告主張の被告の帰責事由がないと認められ、また、予備的請求についても、右同様被告に過失が認められないから、原告の右各請求はその余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。<以下、省略>
(田畑豊 三輪佳久 生野考司)